BMW Motorrad伝統の空冷水平対向2気筒エンジンを抱き、電子制御技術を極力廃したシンプルな車体構成によって、バイク本来の、操る楽しみを追求したR nineTシリーズ。その各モデルは、ライダーのマインドや走行フィールド、それを取り巻くカルチャーやライフスタイルをシンプルに表現している。
そのなかにあってR nineT Urban G/S(以下、Urban G/S)は、特殊な存在と言える。それは1980年に登場した初代GSモデルである、R 80 G/SのDNAを明確に受け継いだモデルだからだ。現代のGSシリーズとは異なり、GとSの間に"/"を持つことから、マニアたちから"スラッシュ"と呼ばれるR 80 G/S。G=ゲレンデ(山道、オフロード)、S=シュトラッセ(道路、オンロード)を意味することから、デュアルパーパスというカテゴリーを造り上げたモデルとして知られている。
また1978年にスタートし、1980年代には世界中の注目を集めるアドベンチャーラリーへと成長したパリ~ダカール・ラリー(以降パリダカ)において、BMW Motorradに数々の栄光をもたらしたパリダカ・レーサーのベースとなったモデルとしても知られている。Urban G/Sが採用する、ホワイトタンクにブルー&ネイビーのストライプと赤いシートの組み合わせは、R 80 G/Sが採用していたデザインであり、ブルー/ネイビー/レッドという組み合わせは、BMW Motorradのモータースポーツカラーでもあるのだ。
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Urban G/Sは、パリダカを戦ったマシンや、それを開発したエンジニアやライダーのDNAも受け継いでいる。事実、Urban G/S発表の約半年前には、Urban G/Sの発売を予告するカスタム・コンセプトバイクを発表した。そのマシンは1985年のパリダカ第7回大会に優勝したゼッケン101/ガストン・ライエが駆った、R 80 G/Sベースのファクトリーレーサーをイメージしたカラーリングやディテールを採用していた。「Lac Rose(ラック・ローズ)」という、そのカスタム・コンセプトバイクのモデル名は、パリダカのゴール地点近くにある湖の名前であり、完走者のみが到達することができる場所。いわばパリダカの象徴的な名前なのである。
またUrban G/Sの発売と同時にスタートしたBMW Motorradのプロモーションには、BMWのヘリテイジ・カテゴリーのメイン・ナビゲーターであるジョイ・ルイスとともに、1981年のパリダカ第3回大会でR80 G/Sベースのパリダカ・レーサーを駆り、BMW Motorradに初のパリダカ優勝をもたらしたユベール・オリオールが登場。そのプロモーションビデオでは、ジョイがUrban G/Sに乗りパリにあるユベールのガレージを訪ね、その後は二人してダカールを訪れるというストーリーが展開されている。
Urban G/Sの根底に流れる、1980年代のパリダカとはどんなレースだったのか。またそれに挑んだBMW Motorradのパリダカ・マシンやそのベースとなったR 80 G/Sとはどんな車両だったのだろうか。
BMW Motorrad Japanが主催するGSトロフィーでコースディレクターを担当する、ジャーナリストの松井勉(まつい・つとむ)さんに話を伺うことにした。松井さんは1988年に四輪のナビゲーターとしてパリダカに初参戦し完走。また1992年には、途中リタイヤしたものの、バイクでパリダカに参戦した経歴の持ち主だ。
では、当時のパリダカとは、どんな意味を持つレースだったのだろうか。
松井 僕はパリダカに参戦する日本人ドライバーのお手伝いで1987年に初めてパリに行ったのですが、ヨーロッパはパリダカ人気が大いに盛り上がっているときで、街にはスクーターに紛れて、パリダカ・レプリカのようなオフロードマシンがとても多かったですね。
そもそも軽量コンパクトで、石畳のような荒れた路面にも強いオフロードバイクはヨーロッパの街中で人気だったのですが、当時のオフロードバイクはオフロードでの性能を追求するあまり、タンクやヘッドライトが小さくなっていました。
しかしパリダカ・レプリカ的なバイクは、オフロードバイクをベースにしながらもダブルヘッドライトで夜道も明るく、ガソリンも多く積めた。デイリーユースにはもってこいのバイクだったんですね。そうすると、冒険心に溢れながらも、いつも街で見るバイクが競い合うパリダカが注目を集め、パリダカでの成績が車両の販売台数にも影響を及ぼすようになります。
当然、1981年と83年にユベール・オリオールが、84・85年とガストン・ライエが勝利したBMW Motorradは、その知名度と販売台数を伸ばしていくわけです。そしてライバルメーカーたちは、販売台数を伸ばすためにもパリダカで勝てるマシン、打倒GSを目指して大排気量2気筒マシンを開発していったのです。
松井 じつはBMW Motorradは、パリダカが始まるずっと以前からオフロードレース、とくに数日にわたってオフロードを走行する都市間レースや耐久レースで好成績を収めていました。もちろんそのときも水平対向2気筒エンジンやシャフトドライブというBMW Motorradの伝統的なディテールを採用していました。そして、そのディテールがオフロードにおいても優位性を発揮することを理解し、さらにオフロードで運動性能を高めるためのノウハウを蓄積していったのです。
またパリダカを含めた都市間レースやアドベンチャーレースと聞くと、多くの人が広大な砂漠や荒れた山道だけを走っていると想像します。でも、ギュッと引き締まった路面の山道や砂漠、または整備された舗装路を使い、長距離を移動することも多い。かつてのパリダカに関しては、総走行距離1万3~4000kmで、その約半分は移動セクションなんです。そこでは荒れた路面コンディションや深い砂漠で有利な軽量な単気筒マシンより、ライダーを疲れさせないBMW Motorradに有利な点が多かったんですね。
パリダカには、ニジェール共和国にあるテネレ砂漠を通るルートが組み込まれていました。そのテネレ砂漠は砂が硬くしまっていたので高速での巡航が可能で、BMW Motorradは130~140km/hで巡航することができたそうです。しかし当時BMW Motorradのライバルだった単気筒エンジンのマシンたちは、そもそもパワーで劣っているうえに砂の抵抗などで100km/hくらいしか出せない。その巡航速度差で4~5時間のSSセクションを走れば、そこで生まれる差はとてつもなく大きくなります。
それまでの、ガレ場や砂丘など軽快な運動性能が要求されるセクションでは単気筒マシンの優位性を発揮できましたが、そこで生まれる差はわずかで、じつは高速巡航区間での差がレースに大きく影響したんです。こういった長距離ラリーにおける戦略に長けていたのがBMW Motorradであり、後にライバルメーカーたちが、これに追従していったのです。
当時のバイクマーケットを振り返ってみると、R 80 G/Sがデビューする少し前から、他メーカーから次々とオフロード専用モデルが登場。また経済成長とともに、当時世界のバイクマーケットの中心だった先進国の道路環境が整備されてくると、オンロードとオフロード、各モデルの専用設計化が進み、両カテゴリーのスタイルやスペックが乖離し始めていた。R 80 G/Sがデビューしたのは、まさにそのタイミングだったのだ。
また当時R 80 G/Sのような、大排気量多気筒エンジンを有するオフロードモデルはほとんど存在しなかった。したがってその優位性を説き、大排気量デュアルパーパスというカテゴリーを造り上げたのがG/Sだったのだ。そのG/Sはバイクが持つ魅力や走行フィールドに対して多角的にアプローチし、その進化とともにファンも広げて行った。
そのBMW Motorradを駆って、BMW Motorradに初のパリダカ優勝もたらしたユベール・オリオールに対して、松井さんはどのような印象を持っているのだろうか。
松井 ダカールに出場する四輪ドライバーの手伝いで初めてパリを訪れ、パリダカの空気にナマで触れた1987年。スタートの手伝いを終え、帰国してしばらく経ってもまだ、その年のパリダカは続いていました。そしてそこでは、いまでも語り継がれる大きなドラマがありました。その主人公が、すでにBMW Motorradを離れていましたが、ユベール・オリオールその人だったのです。
当時パリダカは1月1日から22日頃までの開催期間中、1万3~4000kmを走るレースでした。そこでオリオールは20日まで、2位以下を30分以上引き離してトップを走っていました。そしてその20日は、最後の砂漠ステージでした。しかしオリオールは頻繁にパンクをして、タイムアドバンテージを減らしていました。そこで焦ったのか、キャメルグラスという根の硬い、低い木が生え茂るセクションでクラッシュしたのです。聞いた話によると切り株に足をヒットさせ両足を骨折。しかしそのままバイクを走らせ満身創痍でその日のゴール地点まで走りきったのです。その時点では、わずかながら2位に差を付けてトップを維持していましたが、両足骨折でレースを継続することができずリタイヤしてしまったのです。その両足は開放骨折だったらしく、普通の人なら意識を保つことすら難しい状態だったそうです。
つい何週間か前にフランスでスタートを見送ったライダーやドライバーたちが、それからしばらくして帰国し、お正月気分もすっかり抜けた1月20日頃に、まだレースを続けていて、そんな衝撃的なドラマが展開されていた。そのとき僕は、そんなドラマの中に自分が居たいと、強烈に考えたわけです。それから僕は、一気にパリダカに傾倒していきました。
また僕にとって、初めて記憶に刻まれたBMW Motorradのバイクとは、パリダカで初優勝したR80 G/Sベースのパリダカ・レーサーであり、それを駆ったユベール・オリオールでした。何も知らなかった当時は、よくもこんなバイクで砂漠を走るな、と思っていました。そして1988年に四輪のナビゲーターとして初めてパリダカに参戦したときは、オリオールが四輪に転向した最初の年で、僕は真っ先にオリオールに握手を求めに行きました。また90年代の数年間、オリオールがダカール・ラリーを主催する団体の代表となった時期がありました。そのプロモーションで来日したときも、取材にかこつけてパリダカ・レーサーで戦った頃の話を聞き出していました。
そんなユベール・オリオールが、現在BMW Motorradヘリテイジ・カテゴリーのナビゲーターを務めるジョイ・ルイスとともに走らせるUrban G/Sとはどんなモデルなのだろうか。松井さんに、その印象を聞いてみた。
松井 Urban G/Sというモデル名を聞いたときに、"やられた"と感じました。
イメージソースとなったR 80 G/Sは、そのDNAに、G=ゲレンデ(オフロード)とともにS=シュトラッセ(オンロード)が含まれていました。だからこそ、オフロードレーサー的なアグレッシブさを追求するのではなく、あらゆる道を走るために、エンジンにしても車体にしても、あえて落ち着いた反応を造り込んでいました。その懐の深さが大いに受け、デビュー当時からいままで、ヨーロッパの街中では本当に多くのGSを見ることができます。要するに、GSのDNAには"街=Urban"がしっかりと刻まれていると、僕自身が感じていたからです。
現在のGSシリーズは、その多様性を進化させたことでグローブトロッター(世界を股に掛ける冒険者)的なパフォーマンスとイメージを高めてきました。対してUrban G/Sは、その根底であるG=ゲレンデとS=シュトラッセを走る楽しさを、スーパースポーツに対するカフェレーサーのように、シンプルでカジュアルに表現したようなモデルだと感じています。
僕自身も、まだUrban G/Sに乗ることができていないので、いまから楽しみにしています。
撮影協力
今回、撮影にご協力頂いたのは東京・練馬にあるリーンフォースメント。オーナー自身が熱狂的なHPNのファンであり、HPNとの関係を活かしHPNマシンの製作、またBMW MotorradのOHVマシンを中心としたラリーマシンの製作や、ラリー機器および用品の取り扱いも行っている。 HPNは1980年代BMW Motorradがパリダカに参戦する際に、ラリーマシンの開発を行ったファクトリー。現在は、そのノウハウを活かして製造されたオリジナルフレームを使った二輪メーカーとしても知られている。
http://reinforcement.jp
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BMW MotorradのオフィシャルYoutubeチャンネルでは、今後、ナビゲーターのジョイ・ルイスを中心に、R nineT Urban G/Sで走るダカールの映像や、ユベール・オリオールのインタビュー動画なども公開予定です。ナビゲーターのジョイ・ルイスは、アメリカ・カリフォルニア在住の女性。10代前半、父からプレゼントされたバイクによってその楽しさに目覚め、現在は数多くのビンテージバイクを所有しながら、ビンテージ・フラットトラックレースやビンテージモトクロスレースに積極的に参加しているエンスージアストだ。また有名スポーツブランドの海外小売り部門を担当しているほか、アメリカで開催される女性オンリーのバイカーミーティングの開催などもサポートしている。